限界集落なんて
造語の新鮮さには人の意識をひきつけるものがあります。近頃ローカル新聞を賑わせている限界集落という言葉、65歳以上の人の数が集落の半分を超えるところを指すそうで、そういうところでは自治的な活動や伝統的な行事が続けられなくなる恐れがあるという、ひとつの目安に使われるようです。
「もう限界だ」「限界を超えてしまった」などと日頃からネガティブな使い方をしている言葉ゆえ、恐らく命名者の意図とは逆に、私はこの限界集落に「お先真っ暗」というイメージを持ってしまいました。その限界集落を抱えるご近所北相木村の文化祭に先日おじゃまして目にした印象的な光景は、「限界集落、いやな言葉だね。みんなで頑張って、そんなイメージふっ飛ばそう」と結成されたグループの、フォークソング演奏でした。
今日はその北相木村にある山村留学センターの収穫祭。何が「限界」なもんですか、みんな仲良く、元気なもんです。限界を迎えているのは都市も同じはず。いやむしろ、限界社会にあっては、存外山村の方が健康的で正常な人が多いと思うのです。
仮に、社会学的に中山間地域が抱える深刻さを集約した定義のひとつが「限界集落」だったとしましょう。その場合、このショッキングな言葉を耳にして「その地域の限界」ということを感じているだけでは鈍感なのではないでしょうか。この狭い島国では、山村も都会もすべて流域という言葉で結ばれた、目に見えない運命共同体であるはず。
田舎で生まれた子供が、やがて都会で一旗あげる。そんな雑種第一代の活躍期に築かれたものの眩さに、たった40年ぐらいの「過程」でしかない曖昧なものを、私たちは基準にしようとしていませんか?
都会が人の営みの中心である、ということに目を奪われてはいけませんよ。生命の中心は(100パーセントの自信はありませんが)、開発やお金の合理性に蹂躙されていない第一次産業の里にこそある、という現実をいつも忘れずにいましょう。そう考えると、この限界集落の意味するものが、特定の地域に主題をおくものでないことがわかってくるはずです。
コメント
Posted by: トニー [ 2007年11月15日 15:49 ]
過疎地域が少子高齢社会の先駆事例だという人がいます。限界集落も、多摩ニュータウンや大阪のニュータウン、駅周辺の高層マンションの行く末の先駆事例になるかも。でも、集落は生産と生活が一体となった場所である。ニュータウンは、消費型の生活の場所です。どうなるのでしょうか。限界集落には、集団で生活していくという意味では限界があるけれど、しかし、生きてゆく糧があるのです。消費型生活スタイルでは生活がしにくいけれど、生産型生活スタイルならばOK。
Posted by: かなめ [ 2007年11月16日 06:53 ]
トニーさんコメントありがとうございます。
>消費型生活スタイルでは生活がしにくいけれど、
>生産型生活スタイルならばOK。
まったくそのとおりのようですね。
今暮らしている村では、年寄りの姿をよく見かけます。かなり歩くのが不自由そうな人でも、屋外に出ています。
一方、遠く離れた首都圏のベッドタウンで暮らす私の父に目を向けてみると、この村の年寄りよりもはるかに若い世代なのに、日がな一日家に閉じこもり、何をするでもなく食事の時間を待っています。
おそらくそういう過疎の進む町では、介護や福祉も消費の対象でしかないのかもしれません。