劇的瞬間
我が家の向かい側に、大工さんの作業場があります。私は木を生産しているくせに、建築のことをまったく知らないので、よくそこで大工さんに質問をするのですが、数日前のこと、大工さんの返事におまけがついて返ってきました。それはこんなやりとりでした。
私: 「これはマツですね?」
彼: 「そうだ、ベイマツだ」
「マツだけど困ったよ。良いものが入らなくて…」
最後の一行は、いままでに聞くことのなかった余分な一言で、ボヤキと言うよりも悲痛な訴えのようなものでした。恥ずかしいことに、私はこのときはじめて建築現場での近年の木材の逼迫を実感したのです。さらにつっこんで尋ねてみると、一枚900円だった合板が、今は1400円ぐらいに高騰しており、高くなってしまっただけでなく、必要量を一度に揃えられないこともあるほどだそうです。そして、この高騰をそのまま住宅の値段にのせるわけにも行かない。だから大変に苦しいのだとか。
私たちはこれまで、地元の木であるカラマツをなんとか地域の住宅の材料として利用する仕組みを作ることができないかと考えてきました。若いカラマツは、十分な乾燥をしないと狂いやすいということで、大工さんから嫌われていて、この大工さんにも何度か「カラマツは使わないの?」という問いかけをしたのですが、とにかく「カラマツはダメだ」の一点張りで、まったく話にならなかったのです。
何度も同種の経験をしていた私たちは「もはやカラマツは多くの大工にとって材料ではないのだろう、そういう覚悟で普及を考えなければいけない」と思っていたのですが、先日の大工さんとの会話で、それがひっくり返る劇的瞬間に立ち会うことになりました。
「カラマツだって いいだよ!」
経済価値優先の社会で、使用価値以外、あるいはそれ以上の何かを目に見えるものにしたいと考えていた苦労が、ことカラマツについては、それが経済の中に再び取り込まれる環境ができたことで、無意味なものにさえなろうとしています。
ものがある限り採り尽くす。なくなると価格が高騰して他の産地を物色する。そしてまた採り尽くす。日本の山が再びこの単純な繰り返しの中に組み込まれないようにするにはどうすればよいのだろうか。現場で日々そんなことを考えています。