産泰神社のお祭り
お祭りというと笛太鼓の音や出店を思い浮かべますが、静かな、しっとりとした晴れやかさとともにあるお祭りも、なかなか良いものです。
春のある朝、散歩道の途中にある神社が提灯で飾られ、大きなのぼりがはためいていると「そろそろ百姓の時期だな」などと感じながら、またしても神とともにある暮らしに深い安心感のようなものを覚えるのですが、村誌を確認してみて「それもそのはず」と納得しました。
この安産の神様は、由緒書によれば文久二年と言いますから新撰組の時代にここに勧請されて、ずっと村の女性たちにとって命がけの大事業であるお産を見守っているのです。みんなは親しみをこめて「さんたいさま」と呼んでいます。言ってみれば、中山間地医療の元祖みたいなものでしょうか。
日本の神々は、春になると山から下りてくると聞いていますので、我が家の周囲も、そろそろ八百万の神でごったがえしているのでしょう。
神社に通じる男橋の欄干に並ぶ灯籠 夜は蝋燭の灯がともされます
コメント
Posted by: 樹 [ 2007年4月 8日 21:23 ]
こんばんわ樹です。
守るべきものが年々増えるに付け不安感を落ち着かせるかのように「神」「仏」「先祖」といったキーワードを意識するようになりました。
現代的な医療など無かった時代であればなおの事不安だったに違いありませんね。正に神頼みしか手段の無かった時代、人は命をつなぐと言う事に現代よりもずっと真剣に向かい合っていたように思います。きっと森林の管理も「持続的」なんて言葉は無かったかも知れませんが言われずとも持続的な方法を取っていたのでは無いでしょうか。(想像ですが)
木材も山の神からの授かりものと思えば、大事に扱いますモンネ。
Posted by: かなめ [ 2007年4月 9日 06:10 ]
いつきさん、どうもありがとうございます。
現代的な医療の尊さも、田舎暮らしをしたり、周囲の人の健康を気遣う経験を重ねることで、ぐっと深まるのですが、たとえそれ(現代医療)が備わっていたとしても、根幹にある「神とともにあること」の位置はゆらぐものではないと、近頃強く感じています。
「授かりもの」という言葉も、日々忘れずにすごしたいですね。