冬の終わり
映画 The day after tomorrowは、決して誇張された表現ではないのかな、と標高1100mに暮らす者として強く感じています。
内陸に位置し、標高が高いという特性を併せ持ったこの村は、厳冬期になると最低気温が氷点下20度を下回る日も珍しくなく、いつもなら都市部で暮らすのとは比べ物にならないほど春が待ち遠しいのですが、今年は寂しさを感じるほどに、冬があっけなく終わろうとしています。
そうした冬の終わりを告げるもののひとつは、千曲川での釣解禁です。2月16日朝、犬の散歩に出てみると河川敷に何台もの他県ナンバーの車。そして川の中に立つたくさんの釣り人たち。「とうとう今年は、あの春を夢見る感覚なしにこの時期を迎えてしまったのだな」と橋の上でつぶやきました。
日照の長さ。川面に立ち昇る蒸気霧。鳥たちのさえずり。自然にまみれた村の暮らしは、目に映るものや聞こえるものすべてから季節の変化が伝わり、それを感じる人の感覚を敏感にします。ですから、気候変動という言葉も、それは「言葉」ではなく、すでにかなりの人間の運命を巻き込んだ、取り返しのつかない段階まできている「状況」として感じられます。
奥山の雪も少なく、数日前の雨(2月に雨?)でほとんどが融けてしまいました。おかげで山仕事は楽なのですが、この雪の少なさがもたらす夏の水不足を思うと、手放しで喜んでばかりもいられません。
温暖化防止を語るとき、これまでは「ひとりひとりができることから始めよう」が合言葉でした。もちろん、まずその心構えが大切であることは変わらないのですが、行動している人たちは、ぜひとも次の段階に上がるべきではないかと最近よく考えます。それはたとえばこんなやり方でも良いかもしれません。
まずこれからの自分の行動から、極力温暖化物質排出につながるものをなくす。ここまでは実施している人も少なくないでしょう。次に、自分の一日の行動すべてを、温暖化物質の排出量に換算してみる。それができたなら、今度は行動の中にマイナス排出量に結びつくような要素を積極的に取り入れてみる。
夢物語のように聞こえるかもしれませんが、私たちひとりひとりが、もしもそれぞれの人生でこれまで排出してきた温暖化物質の総量を固定することができたら、大気中の温暖化物質の濃度は目に見える形で下がるはずです。